それでは続きを。
1997年1月から神奈川県横浜市へ引越し株式会社テインにお世話になりました。
海外ラリー初年度のプランとして市野社長が考えてくださったことは、その当時日本では使われて
いなかったペースノートの練習をするためにマレーシアの国内選手権に参戦すること。
何故マレーシア?と思う方もいるとは思いますが、マレーシアのコースは起伏にとんでいて
ペースノートを作るのに非常に難しいコースなのです。
また、道の状態もハイスピードからロースピードまで変化にとんでいて、練習するにはちょうど良い
環境でした。
でも走ってみて痛感したのはペースノートをきちんと作らないと全く走れないっていう事。
それまで走っていた日本の林道(北海道以外の林道は走ったこと無かったけど)と比べて
スピード域がぜんぜん違うんですよ。もちろん、海外ラリーの方が速いの。
見た目で走ってたら、あっ!!ちゅうまにコースアウトしますよ。。。
それまでのラリーだったら、ほとんどの力をドライビングに集中して走ることが出来たんだけど、
海外に行ってからは、ペースノートにも重点を置いて走るっていうことが最初は出来なくてね~
本当に苦労したな~
あとマレーシアがホントに暑いんですよ!!
気温35℃湿度90%が当たり前。
あと赤道直下だから太陽が真上にあって日陰がないの。木陰がないの。
忘れもしない最初に出たラリーで、いくつかのSS終わったところで、突然めまいがして手足が
しびれ、「もう運転できない」と思って道端に車を止めて車から引っ張り出してもらい、近くにあった家の
軒下で頭から水をかけてもらってなんとか回復。なんとかヘロヘロになりながらラリー続行!!なんてこともあったくらい。
さすがにあの時は「もうダメかも・・・」って思ったねぇ。。。
それから、徐々にペースノート走法にも慣れ、暑さにも対応できるようになってきて、その年の
マレーシア選手権最終戦でグループN初優勝を達成!!

初めて参戦したAPRC(アジパシ)ラリーマレーシアもブレーキパイプが切れたり、突っ込みすぎて
土手にぶつかったりと様々あったものの、グループN4位くらい(ゴメン忘れた)で完走することができた。
ということで1997年はラリードライバーとして大きくステップアップできた年だった。と思う。
翌1998年は、APRC2戦とマレーシア選手権に参戦。
緒戦はAPRCラリータイランド。
レッキした感じだと、なまらハイスピードで道幅も広くこれならいけるかも。。。。と
意気込んでスタートしたんだけど・・・・・
SS1をスタート!! 1速から2、3、4速とギアを上げていったら・・・・クラッチペダルが床に張り付いて戻って
きません。
まだ1こもコーナー曲がってないのに・・・・・
なんとか、クラッチレスで変速し、スタートはエンジン停止してセルスタート(スタートと共にキーを回す)
で、その日を乗り切って最終サービスで壊れた部品を交換できてリタイヤは免れたんだけど。
ほぼ最下位へ
でもね~次の日からは、ペース良く走ることができたし、トップタイムも何度か取れたんだよ。
トラブルが無ければな~と思ったけどしょうがないよね。これもラリーだし。
このラリーですごい自信がついたよ。
マレーシアシリーズはというと、プロトンチーム(地元マレーシアのチーム)の牙城を崩すことができず
シリーズ2位で終わってしまい、残念ながらこの年は1勝もできなかった。
で、翌年・・・・ カローラですよ。
正直初めて丸和で走ったときは、こんな化け物ぜったい運転できないよ~ってちょっと思ったね。
あんなすごい加速は初体験だったよ。。。
でも人間の慣れってすごいよね。そんなカローラも何回か乗ると加速にも慣れ徐々にいろんな事が
できるようになったもの。
そうなると、あんな楽しいものはないね。
そりゃそうだ、ラリー専用に作ってるんだから、自分がやりたいことが自由自在にできるんだもの。
そんなカローラで初参戦したWRCはニュージーランド。
結果は、徐々になれてペースを上げていった矢先に、橋の欄干へぶつかって足回りを破損。
そのまま、走り続けたんだけど途中でおまわりさんに止められて終了・・・
続いて参戦したチャイナラリー。
シェイクダウンテストで崖に落ちて車を大破させてしまい、なんとか修理してもらってラリーには参戦
できたけど、1レグでコースアウトしてリタイヤ。
申し訳ございません。若気の至りです。
この年はうまくいかなかったな~
何をしてもうまくいかなかった。
きっと、気負ってたんだろうね。今考えてみると。
その当時は、原因が分からず悩んだものです。
その年の終わりにテインスポーツの活動が終了してしまい、翌年からはまたプライベートで全日本ラリーを
参戦することになりました。
つづく





















